第二話 理慶尼と織部正のこと
戦国のころ雨宮織部正という先祖がいて、武田家に仕えた。織部正は信玄公に葡萄を献じ、天文十八年(一五四九)十月三日、褒美として太刀一腰と龍の模様の御朱印をおした褒状をもらった。これはいまもうちの家宝としてつたえられている。
さて、織部正は天正十年(一五八二)三月、天目山田野で勝頼が自決し、武田家がほろびたとき、腹を切つて殉死した人である。
これより先、織部正は勝沼五郎の妹を嫁にもらっていたが、あるとき五郎が信玄に謀叛をおこしたので、よんどころなく妻を離別した。この女は、兄の五郎が信玄に誅されたので帰るべき実家もなく、柏尾の大善寺へはいり、仏門に帰依して理慶尼と名のった。
なお、この理慶尼は雨宮家に嫁してから、武田家に召されて勝頼の乳母をしたことがあると伝えられている。
信玄が没して勝頼の代になり、天正十年三月、敵(織田・徳川の連合軍)に攻められ、勝頼主従は郡内の岩殿城に落ちようとして、途中理慶尼のいる大善寺に一泊した。
しかるに、勝頼がたのみにした重臣小山田信茂が背いて敵方へついたので、進退きわまり、天目山の麓の影で主従ことごとく自害し、ここに武田家は滅びたのである。前述したように織部正も最後まで勝頼に従っていて、腹を切って殉死した。田野の景徳院に勝頼主従のお墓があり、また塩山の恵林寺にも、その後建てた墓がある。
この時の様子を、理慶尼が書いた「理慶尼記」というものが大善寺にのこっている
(筆者註)
1、勝沼家は武田家の親戚で、武田家をとりまく豪族のひとつである。
勝沼五郎信元(丹波守)は、同じく五郎信友(安芸守)の子である。父の信友は信玄の父信虎の異母弟で、天文四年(一五三五)郡内へ侵入した北条氏綱の軍勢と戦い死んだ。したがって信元とその妹の理慶尼は、信玄のいとこにあたるわけである。彼女が雨宮家に嫁してから勝頼の乳母をしたということは血筋からみてありそうな話である。
2、信元は、父信友の後を継ぎ信玄の軍勢に従って各地の戦いに参加したが、永禄三年(一五六〇)武蔵国の藤田右衛門との内通が露見し、信玄の命をうけた山県昌景によって十一月三日処断され、勝沼家はほろびた。勝沼氏の館跡はいまの勝沼町上町にあり、日川の渓谷をへだてて雨宮家のある上岩崎に接する台地で、御所とよばれるところにある。甲斐古城志によれば二町四方で二重堀をめぐらしていたという。
武田氏と勝沼氏との関係を系図でみると下のようになる。

勝沼事件について記録をみると次のようである。
永禄三年庚申霜月三日
甲州勝沼五郎殿御成敗の儀、前未の年より御目付の御小人頭を殊の外御馳走有故此よしを廿人衆頭より隠密に言上仕り、横目の御中間頭衆も心付て甲州恵林寺の入、中まきと云所に待て、あやしきものをとらへたれば、武蔵国藤田右衛門と云侍大将と勝沼五郎殿と内通有信玄公御出陣の御留守に甲州東部へ藤田右衛門をひき入、五郎殿甲州府中へ、なおり侯はんと有、逆心の文あらはれて、勝沼五郎殿御成敗也。其跡二百八十騎の同心被官二百騎をば、跡部大炊助に預下され、八十騎をば御舎弟信連様へ進じ置るる也。(甲陽軍鑑・品第三十二)
或年武田一流勝沼五郎殿新人岩間大蔵左衛門と別して入魂ありて人の取りやりなされ、彼大蔵左衛門に年々合力などしたまふに付て、目付衆やがて申上る信玄公聞召訴人とさだむる者にちかづき、殊にしたしき儀、不審のたつ様子なりとて御せんさく候へぱ案のごとく五郎殿関東武蔵の大石一党と内通にて逆心の企顕はれて、其の年中に勝沼五郎殿を信玄公御成敗被成侯也。(甲陽軍鑑・品第四十上)
なお、藤田右衛門は山内上杉氏の重臣、後北条氏に降った人である。また信元には弟と妹があり、弟信厚は加藤氏を相続し加藤丹後守信原と名乗り、妹が即ち理慶尼である。信元の子は僧になって武田日閑と名乗り、相州馬入川の辺、今井村にある信隆院に住んだ。
勝沼町誌史蹟篇に「信玄公勝沼入道息女二御手ヲ掛ケラレ古籠屋小路二屋敷ヲ構へ入置カル」(軍筆大全伝解)と紹介し、「詳かならず」と記述してあるのは、筆者にとってまことに気にかかるところである。勝沼入道とは信友のことか信元のことかハッキリしないが、もし信友を指すものとして、これが事実だとすれば、信友には理慶尼と別に娘があったのであろうか。信じられないことだが、この女が理慶尼自身であったと仮定すれば、筆者が書いている彼女の物語に重大な影饗がでてくる訳である。ここでは町誌の執筆者が「詳ならず」と言うことに随って、この説を捨てて進むことにする。
3、理慶尼の名は「松の葉」といったらしい。前述のように信虎の異母弟勝沼五郎信友の娘、同じく五郎信元の妹である。
理慶尼の墓は大善寺境内、本堂東の路傍にあるが、大善寺過去帳に「桂樹庵理慶比丘尼勝沼五郎女松ノ葉君、勝頼公乳母、慶長十六年辛亥八月十七日寂享年八十二才」(傍点筆者)と記され、また同寺記に一、理慶比丘尼墓、慶長十六年辛亥八月十七日寂、勝沼入道の息女也。雨宮某に嫁し、無
程入道叛逆の旨露顕に及びきこゆるゆえ、雨宮こと其罪を遁れんため離縁す。時に息女妊身也。当山護摩堂の阿閣梨慶弥に随い尼となる。其子孫代々当山に居住し、寺家を守護す。理慶の単仮名文二巻家に伝う。従者四人今猶其未孫在り。久保田伝兵衛、水上半助、佐藤源十郎、飯室杢左衛門とあり、さらに勝沼町誌には武田系図によるとして
「理慶比丘尼は勝沼五郎信友の女なり。伝に言う。後に桂樹庵理慶尼というと。初め松葉姫と称して雨宮某に嫁す。永禄三年勝沼氏滅亡の折、雨宮某其の難を避けんが為に離縁する。婦人は止むなく従者四人を従え、柏尾山護摩堂に阿閣梨慶紹を尋ねて師となし尼となる。柏尾山千鳥堂の傍なる庵室に住居すると。時に妊ありて一子を産む。その子男女詳かならず。その子孫代々柏尾山に在り、末孫享保中に死し、後は続かずと聞く。従者四人の子孫また大善寺門前民戸に在り。長く繁栄すと伝えにいう。天正十年三月勝頼新府城に火を放ち、郡内小山田信茂の城岩殿に向わんとして柏尾にさしかかりし際、理慶の庵室に一夜投宿して田野に赴き、戦死す。理慶其の始末を詳細に記し、高野山引導院に贈る。即ち理慶尼記或は勝頼滅亡記と称して其草案二巻を大善寺に蔵すと寺記にあり。その内一巻は亡び、一巻は寺宝として現存する。」
また甲菱国志巻之九十五人物部第四には
「理慶比丘尼」伝云勝沼入道不山ノ女ナリ桂樹庵ト号ス初メ雨宮某二嫁セリ勝沼氏誅セラレシ時ニ雨宮某其縁ヲ断チテ其難ヲ避ク婦人柏尾山ニ入リ護摩堂ノ阿著梨慶紹ヲ師トシ尼トナリヌ此時既ニ妊有リ一子ヲ産ム男女詳ナラズ其裔孫アリ享保中死シテ後無シ従者ノ胤ト云者四人今大善寺ノ門前民戸ニ在リト云寺宝二理慶ノ仮名文二巻壬午三月勝頼夫婦此ニ走来リ理慶ノ庵室ニ一夜投宿シテ田野郷ニ赴キ戦死セシ始末ヲ手書シテ高野山引導院へ贈リシ草案アリ本書今引導院ニ蔵ス彼通念集ニモ見ユ但シ一巻ハ亡ス一巻ハ写シテ附録ニ記載ス理慶ハ慶長十六年辛亥八月十七日寂ス同寺ニ墓アリ」
以上の内、大善寺過去帳、同寺記と「武田系図によれぱ云々」の項はすべて勝沼町誌から引用したが、甲斐国志の記述もふくめ、みなほとんど同じ内容で、理慶尼の経歴をうかがうことができる。彼女も悲劇にめぐりあった戦国の女性のひとりといえよう。
4、雨宮家は遠くは信濃村上氏の出である。
甲陽軍鑑(品第三十三)に雨宮十兵衛(重兵衛とも書く)家次という豪傑についての記述があるが、この人は織部正の父雨宮志摩守猶良のいとこにあたる。その辺の系図をみると

となっている。
余談になるが、十兵衛家次は甲陽軍鑑によれば信玄の長子太郎義信の家来であった。信玄が義信に逆心ありとしてこれを監禁し自決せしめた事件にあたり、永録八年義信の部下八十騎が成敗され或は追放された。このとき、彼は小田原へ走り北条家に仕えたが、三年の間に七回も大きな手柄をたて、北条氏康・氏政父子から七通の感状をもらい、四たびも一番槍の功名があったので、高坂弾正が「かほどの勇士を追放したままにしておくのはもったいない」と信玄にとりなし、彼は離脱後三年目にして武田家へ帰参した。(雨宮家系図にも重兵衛家次の項に「仕武田義信永禄八年義信違父晴信之命自害故奔相州仕北条氏康度々戦功有氏康賞之賜感書七通同十年高坂弾正申之于晴信家次帰甲州」とある)
よほどの勇士だったにちがいない。だいいち雨宮十兵衛家次とは、いかにも戦国時代の豪傑らしい名前である。
5、雨宮織部正、名は良晴後に景尚、筆者の曽祖父作左衛門から溯って数えると十三代前の祖先である。雨宮家の系図によれぱ彼は雨宮志摩守猶良(武田信玄に仕え、天正五年卒)の息で、「武田四郎勝頼天正十年三月十一日初鹿野田野之郷没落之刻殉死」とあり、年令は記されていない。
前述の理慶尼関係の古文書では「雨宮某其縁ヲ断チテ其難ヲ避ク」という調子で、保身のために妻を離別して災難をのがれたという風の簡単な記述しかない。しかし考えてみると、織部正という人物は勝頼に最後まで従い、殉死した数少ない家臣の一人である。いうまでもなく「忠義」の観念は、徳川封建制の中で確立した道徳であり、織部正の生きた戦国のころは落目の主君を見捨てて強い方へ走るということは、当然とされた時代であった。現に武田滅亡の当時、武田家の親戚で筆頭の重臣の地位にある穴山梅雪が徳川へついたのをはじめ、ほとんどの譜代の家臣が裏切って敵に走った有様である。そういう情勢にあって、田野で勝頼に殉じたとあれば、当時としては珍らしく律気で純忠の士といえる。
したがって織部正は、勝沼事件にあたっても、ただ妻を離別して傍観していたのではなく、「大義親を滅す」という言葉のとおり、涙をふるって愛する妻を離別し、山県昌景の軍勢とともに勝沼館攻略に参加したと考えるほうが自然である。そうなると話が「吉良の仁吉」に似て劇的になりすぎるのは筆者の先祖びいきのゆえであろうか。
なお「勝沼殿御成敗」にあたっては、信元が山県勢に抵抗して戦斗がおこなわれたのか、或は圧力によって自決させられたのか明かでない。しかし軍鑑伝解では信玄の命を受けた山県昌景が「勝沼に押寄せ誅戮」したとあるから、若干の兵力を用いたものと思われる。いっぼう信元の側も、軍鑑によれば五百八十騎の動員力を有する豪族であるから、ある程度の防戦も可能であろう。
そもそもこの勝沼事件なるものが、「逆心の文あらはれて」とあるように、信元の謀反の物的証拠があがって信玄に成敗されたことになっているが、内通が事実なのか或は何者かの謀略にひっかかったのか、真相は謎であろう。
6、筆者のもっている理慶尼記の写本は、明治三十年に大善寺本から写真石版としたもので、「理慶尼真蹟」と題してある。
その内容は、主として田野における勝頼一行の滅亡の様子を詳細に記述したものであるが、描写があまりに詳しく、あたかも現場をみていたように書かれていて、不審の感じがする。武田滅亡の後、彼女が伝聞を集めて書きおろしたことになっているが、後述するようにこれは何者かが理慶尼の名に仮托して作った後世の歴史小説であろうという辻善之助氏説(明治四十年「史学雑誌」)があり、或はこれが真実であろうと思われるが、ここではしばらく伝説にしたがってすすめることにする。
7、甲斐国志その他によれば、彼女は離別されたころ、織部正の子をみごもっており、尼になってからすぐ生んだらしいが、性別もわからず、その子孫も絶えたらしい。しかし彼女が勝頼の乳母だったとすれぱ、これより先、雨宮家に嫁してから当然出産があったと考えられる。
雨宮家系図によればこの辺の時代は
雨宮志摩守猶良(信玄に仕う。天正五年五月二十八日卒)−
−雨宮織部正良晴後景尚(武田家に仕う。武田四郎勝頼天正十年三月十一日田野之郷没落之刻殉死)−
−雨宮作右衛門良信(天正十一年六月二日東照神君御朱印被下置。寛永十三年六月十三日卒)−
−雨宮宮内丞良猶(天文元年生、寛文五年卒、年九十三、天正十年十二月五日東照神君当国御打入之節御朱印被下置)−−
とある。理慶尼が雨宮家に嫁して生んだ子はこの作右衛門良信かと思ったが、別の古文書に良信は織部正の「嫡」で、父戦死の折「幼稚」であったとあるので理慶尼の子ではない。織部正の後妻の子であろう。雨宮家系図のこの辺りでは、当主についてのみ記されていて、兄弟姉妹は略されているので、理慶尼が雨宮家で生んだ子のことはわからない。
(余談になるが、武田氏が滅びると信長は甲州を河尻鎮吉に領させた。信長は武田滅亡のあとわずか三月足らず、六月二日に本能寺で殺され、河尻鎮吉も蜂起した甲州の民衆に殺された。そのあとの甲州は徳川家康と北条氏政氏直父子の争奪の場となり、武田の遺臣を巧みに利用した家康が勝って、それ以来徳川の領土となったのである。そのため、天正十年から翌年にかけて家康が武田の遺臣へだした所領安堵状は甚だ多く、前記の系図にある朱印状もそれであろう。これらはいまも雨宮家に保存されている。)
8、なお、甲斐国志(巻之九十八、人物部第七)に「雨宮善次郎」という項があり、「軍鑑ニ小姓衆ナリ又信州先方衆二雨宮某ト記スアリ北越軍談雨宮織部二作ル三国志ニハ織部一子善次郎共ニ田野討死トアリ大坂役ニ善次郎井伊家ニ属シ若江戦死ノ内ニ見エタリ」云々とある。(傍点筆者)
これだけではいったい善次郎が即ち織部正なのか、織部正の子が善次郎なのかわからない。織部正が一子善次郎と共に田野で討死したという説もあるわけである。(但しその善次郎が大坂の役で戦死したとなると、なんとも真相は不明としか言いようがない。)
しかし、これは全くの仮説であるが、もしも善次郎なる者が理慶尼と織部正との間の子であり、織部正と善次郎の父子が勝頼一行に従って大善寺へ泊まり、田野で殉死したとなると、物語はますます劇的になるのである。
9、理慶尼の年令について考えてみると、大善寺過去帳の享年八十二才が正しいとすれば、それから逆算して
勝頼の誕生−−天文15年(一五四六)理慶尼17才
勝沼事件 −−永禄 3年(一五六〇) 〃 31才
武田家滅亡−−天正10年(一五八二) 〃 53才
理慶尼の死−−慶長16年(一六一一) 〃 82才
ということになり、仮りに勝頼が生まれた年に乳母になったとすれば、彼女は数え年十七才ということになる。
もし乳母という役が必ずしも乳を与えるという仕事でなく、いわゆる乳人(教育者)という立場であったとすれば、彼女が武田家へ出仕したのはもっと年長になってからでもよい。(「理慶尼記」がもし彼女の真蹟であるとすれぱ、その文章からみてよほど教養のある才女であり、また信玄のいとこという血筋からみても、武田家の嫡子の教育者には適格であったと思われる。)
10、柏尾山大善寺は養老二年(七一八)僧行基の開創といわれ、真言宗智山派に属する古刹で、いまの勝沼町深沢にある。聖武天皇の勅額と、薬師如来を本尊とする国宝薬師堂がある。(本書では、明治元年の柏尾の戦争に再びこの寺が登場する)11、ともあれ、天正十年三月三日新府城を出発した勝頼と夫人北条氏、妹於松、子の信勝と従者たちが、理慶尼の住む大善寺にその逃亡の旅の最初の一夜を宿したとき、その一行の中には織部正もいた可能性がある。(大善寺は雨宮家のすぐ近くだから、彼だけは家へ立ちより、大善寺へは顔をみせなかったかも知れない。もしそうだとすれば、よくも織部正はそのまま退散しなかったもので、よほどの忠臣ということになる)
彼女にとって、勝頼はその昔乳をのませた人であり、織部正はかつての夫である。
武田の血族であり、躑躅が崎の館に仕えた経験のある彼女は、さかんなりしころの館の賑いと、風林火山の孫子の旗も色あせて、落人の一群となった勝頼主従の敗軍の姿を、まのあたりにみくらべて深い感慨があった筈であるし、織部正に対しても当然何らかの感情がうごいたにちがいない。
折しも三月三日の桃の節旬、彼女は心をこめて勝頼らに夕食を供し、ともに涙をながしたと想像される。
しかし「理慶尼記」では、勝頼らの大善寺一泊のくだりはごく短く記述されるにとどまり、夫人の北条氏が薬師堂にこもって祈願をし、「西を出て東へゆきて後の世の宿かしわをとたのむみ仏」の一首を詠進したことと、次第に逃亡する従者が増え、勝頼が呼んでも返事をする者がすくなくなり、「御心ぼそくやおぼしめす」ということが書かれている程度である。(まして織部正について全く記述がないのは当然で、たとえ二人が出会っていたとしても、尼の身としてはそれを書く筈はないと思われる。)
そして「理慶尼記」はその記述の大部分を、田野の悲劇の描写と詠嘆とについやしているのである。
因みに田野における武田家の滅亡のとき、勝頼三十七才、夫人北条氏十九才、勝頼の子太郎信勝十六才であった。殉死の士三十五人、侍女十六人、一説に士四十六人、侍女二十三人(甲斐国志巻之四十)といわれている。
一行の申にあった勝頼の妹で、新館御料人とよばれていた於松はこのとき二十二才。勝頼のすすめにより、彼女だけは従者二人に守られて落ち、のちに八王子信松院で元和二年五十六才で没している。
(余談であるがこれより先勝頼夫人北条氏が、つぎつぎにくる敗戦の報に胸をいためて、天正十年二月十九日武田八幡宮に夫の武運を祈念して奉納した願文は悲しくもうつくしく、戦国女性の典型をみる思いがする。)
勝頼夫婦父子と、それに殉死した従士一行の墓は、田野の景徳院と塩山の恵林寺とにあるが、織部正の墓もその中にあり、雨宮家系図によればその法号は景徳院では雨霖禅宮居士、恵林寺では文珠院殿慈雲光了大居士となっている。
12、前にふれたように、明治四十年「史学雑誌」(第十八篇第二号)に「理慶尼記一名武田勝頼滅亡記解題」(一の歴史小説に過ぎず)と題する辻善之助氏の一文がある。それによれぱ辻氏は理慶尼記を詳細に研究して、七箇条の疑点をあげ、これは後世何者かが理慶尼の名に仮托して書いた偽作であると推定し、だいいち勝頼主従が大善寺へ一泊したという事実さえも疑わしいとまできめつけている。
こうなると歴史学の専門家の研究に対して、門外漢である筆者は首肯せざるを得ないが、いっぼう家の祖先にまつわる伝説のロマンは、そのままそっとしておきたい気持がするのも事実である。
13、理慶尼の画像が大善寺の寺宝として保存されているが、老いた尼僧の柔和な面影がしのぱれる。
14、作左衛門の話にある信玄公より拝領の太刀(刀身二尺八寸、美濃国兼定の銘がある)と褒状はいまも雨宮家にあり、その内容は左の通りである。
賞
別テ致奉公山葡萄依献太刀一腰受賞被宛行之由被仰出者也
天文十八年巳酉十月三日
長坂築後守奉之
雨宮織部正殿
(なお、この項については、稲垣浩氏の理慶尼に関する研究を参考にした)
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